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カテゴリー「歴史散策」の記事

2023年11月27日

嵯峨千光寺の角倉了以

 京都にとっても水問題はあり、かなり厄介だったようだ。都の東西に流れる桂川(保津川の下流域)と鴨川を水運に利用しようとした。定年後初めて京都を訪れた私にとって驚きであり、興味関心であった。すでに中世から治水と利水に相当の工夫を凝らしていた人物がいた。
まず最初に渡月橋の上流域の大堰川(おおいがわ)の開削工事、次に森鴎外の歴史小説「高瀬舟」で知られる高瀬川(二条・伏見間11.1kmの人工の運河)を私財7万5千両(現在貨幣換算で約150億円相当)を投じて開削したのが、京都随一の豪商で、「水運の父」の一人と言われた角倉了以である。

戦国期から江戸初期にかけて、朱印船貿易の開始とともに安南国(今のベトナム)との貿易等で財をなした長者である。
私は戦国期にこうした途方もない開発プロジェクトをやってのける程の人物に以前から興味があった。
この当時にこんな公益精神で舟運の発展に尽くしている人物がいるなんて信じられなかった。資金力もさることながらその技術力や遂行力にも驚くばかりである。なお、投下資金は、開通後には通行料として数年程度で回収出来たようではあるけれども。
また江戸幕府の命令により富士川(慶長12年)、天竜川、庄内川などの開削も行っていたようだ。

調べてみると角倉了以(1554年-1614年)は京都嵯峨の出身で、その生涯はほぼ徳川家康と重なっている。角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら土倉つまり質屋も営んでいた。家康が江戸幕府を開いた数年後1606年に、まず京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数キロ上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得た。
そして、開削を始めて約6カ月後には竣工させている。その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を振るって仕事にあたったとも言われている。
保津峡の開削の成功により搬送船が嵯峨に着き、丹波地方の農作物は旧倍して運ばれはじめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと関係資料に記録されている。

その了以が、晩年に保津川開削工事の犠牲者の霊を弔うために、稔侍仏の千手観音を大悲閣千光寺に祀り、この寺で亡くなっている。
大悲閣には角倉了以の木像があるというので、以前から一度訪ねてみたいと思っていた。
渡月橋界隈は、何度も行ったことがあったが、千光寺は渡月橋を渡らずに保津川西岸の嵐山の中腹にあった。渡月橋から徒歩20分程度である。
九折の急な参道を上ってみると小さな本堂等だけがあり少し驚いた。別棟からは大堰川が眼下に見え、遠くには京都市街や比叡山も見えた。

本堂の木像の了以は、法衣を着て石割斧を持ち、片膝を立てて座っている。射るような眼光の鋭さが意志の強い性格の人でないかと想像した。 困難な事業を遂行するには、想像を絶するくらいの難関があっのだろう推察したが、そうさせたものは何なんだろうかも思ったりもした。
嵐山の山腹の寺から心静かに京都市街を眺めながら当時を状況を偲んでみるとその角倉了以の意志の強さをただ感じざるを得なかった。

 

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2023年8月30日

素晴らしい先達二人に出会った石清水八幡宮

 関西に来た頃から、京都へ向かう途中で、ずっと気に掛かっていた場所の一つに八幡市の石清水八幡宮があった。
立地場所も南京都で、桂川、宇治川、木津川の三川合流地点の近くにある。三つ川はこの地で淀川となって大阪湾に注いでいる。面白い自然のロケーションでもある。また男山から見る鳥羽伏見の戦いを想像してみるのに良い場所でもある。
そして、私が石清水八幡宮の名を初めて知ったのは、吉田兼好の徒然草の第52段の仁和寺の老僧の「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」の言葉である。つまり、仁和寺の僧は、男山の麓の高良神社等のみ参詣して帰ってしまい、肝心の山上の本宮の八幡宮に参詣しなかった。だから、どんな些細なことでも、案内がほしいという教訓となっている。

実は私も早とちりな所があるし、ましてや初めての歴史散策は、今では事前に調べて出かけているが、それでも現地で勘違いして迷ってしまった経験はある。だから、今回は石清水八幡宮の現地案内所で、数枚の案内図を見ていたところ、突然なかから高年女性ボランティアが話かけてくれて、案内図を広げて八幡宮の設立の来歴からエジソン記念碑や楠木正成の手植え楠とかの見どころからを実に詳しく教えて頂いたのである。
この方が、まず一人目の先達である。

つまり清和天皇(850~881)は藤原氏が実権を握る時代に産まれ、母が藤原氏一族だったためにわずか9歳で天皇の位についたが、藤原氏が力を持つことを良しとしておらず、早くに譲位し仏門に入った。わずか31歳の生涯ながら子孫が多く、そのうちの一族に「源」という姓を与えた。この一族が「清和源氏」で、清和源氏は地方に広がり、武士となり勢力をのばした。源頼義・義家の時代には、関東で地盤を築き、ここで源頼朝は、鎌倉幕府を開くことになった。

また、石清水八幡宮は、神社創建前に霊水「石清水」が湧き出ていたことがその名の由来で、今から約1160年前の平安京を守る神様として、八幡宮の総本社である九州・宇佐八幡宮から八幡大神を勧請し、貞観2年(860年)に創建されたこと。またこの八幡宮は応神天皇、神功皇后、比咩大神(ひめおおかみ)の三神をお祀りする、二所宗廟のひとつであること。二所宗廟は、皇室が先祖に対して祭祀を行う廟のことで、伊勢神宮と石清水八幡宮の二ケ所だけだという格の高い神社でもあることなど知らないことだけでした。

男山の山上で、まるで竜宮城と見紛える社殿をゆっくりと眺めていたら、社務所の人かな思える初老の男性から良い写真とれましたかと声をかけて頂いた。そこで、私は1580年に信長の寄進した塀について尋ねたところ、分厚い瓦を重ねた幅1m強程の土塀の耐久力や耐火力の凄さの話もして頂いた。

それから信長は社殿内の朽ちた雨樋見て、永久に朽ちない金の雨樋として寄進した話もスマホ画面を次々に見せてくれて、詳しく説明してもらった。基礎の石垣も大坂城のように綺麗ない石組だったし、社殿の二羽の神鳩も八の字となっている謂れを説明して頂いた。
この日、二人目の先達であった。

八幡宮の創建以来、清和源氏や楠木正成、信長、家康らから寄進を受けているこの八幡宮は素人の私にも超国宝ものだと得心したのである。
それもこれも素晴らしい二人の「先達」のお陰だと思い、久し振りに充実した歴史散策となった思いがした。

 

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2021年10月11日

やはり「少しの事にも先達はあらまおしきことなり」

 

先日、久し振りに街道めぐりの歴史散歩にでかけた。京街道(京都に向けてのみの街道名)の一部を歩くためである。
事前に京街道巡りのマップやら、気になっている史跡も含めて、ネット等で情報収集に数時間かけて調べていた。

東海道は53次(江戸日本橋から滋賀の大津宿)がなじみ深いが、徳川幕府の公称では、大津から大阪へはあと4宿場(伏見、淀、枚方、守口)も含めた東海道57次となっている。 今回の散策は、この最後の57次の宿場街である守口宿が中心なかでも秀吉が1596年に毛利、小早川、吉川の毛利三家に命じて造成させた「元禄の堤」の遺跡です。

なにせ今から400年以上も前の街道であり、現存する「元禄の堤」の跡も僅か700m程もないことだからと地図等で事前に確認はしていた。
しかし、当時の街道と言えば幅2mほどの小道でもあり、淀川左岸の堤防を改修して造った街道で、堤であるから少し高くなっていたことには当初は全く気付いてはいなかった。

当日は、京阪鉄道の守口市駅で下車し、淀川方向の出口から出たのですが、どうも列車の進行方向と勘違いしていた。 持参の京街道マップとは違うなあと気付いたので、すぐに通りかかりの年配の方の二人に道順を尋ねて確認したのである。

すると間違いもすぐに修正出来たのですが、肝心の「元禄の堤」への入口が全く分かりません。またしても通行人の方にお尋ねしたのですが、どうも要領を得ずにあたりをうろうろと歩くことになりました。地域の歴史に興味もなく、地元愛もうすい方には当然のことかもしれないなあとは思いながら、また暫らく歩きまわりました。

しかし、目的の京街道沿いの一部の石碑しか見つけるのがやっとで、次第に疲れて出て遂には体力も尽きかけ、諦めて後日出直すことになったのです。
そうして帰宅してから、再度入念に調べてみると意外と近くにあったたことが解ったのです。ほんの少しのところで逆方向に進んでいたのです。

因みに、先達とは案内人のことではあるのですが、何事も自分勝手な思い込みでは駄目であるとまた思い知ったのである。 まさに、あの徒然草の仁和寺の僧侶の如しである。
兼好法師の「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」の残した言は、まさに至言なりと感心しきりであった。

この守口市からあの石清水八幡宮もあまり遠くないはない場所にあり、その山上の石清水神社には次回は心して参詣したいものだと心に 刻んだ歴史散策だった。


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2021年4月 4日

古人の歩いた道を辿る(その3)

 私が初めて、京都を訪れたのは中学3年の奈良京都の修学旅行だった。
当時は日本史にもあまり関心もない生徒だったし、京都と言えば寺社仏閣ばかりの見学と言うイメージだったのであまり印象はないけれど、何故か
清水寺の音羽の滝だけは美味しい水を 柄杓で飲んでる記念写真もあり、今も鮮烈に脳裏に残っている。

そして、社会人となってから歴史小説を読むようになってから京都の重要性を次第に理解出来てからは、常に日本の歴史文化の故郷だと思った。
定年後は、子供達の就職独立の縁で、関西に生活拠点を移すことになった訳だが、私にとっては歴史散策の場が増殖するという楽しみとなった。

とりわけ、鴨川の河川敷をゆったり歩くことは、私には何とも言えない京都の風情を感じさせてくれるものとなった。
勿論、東山沿いの「哲学の道」も思索を巡らすのに適している小路で素晴らしいものではあるけれども、鴨川は別の意味で京都散策に適している。

そして、以前から気になってた下加茂神社から上賀茂神社へ向かうあの葵祭りルートを辿ってみたいという衝動に突き動かされて、賀茂川沿いをじっくりと歩いてみた。沿道の桜もかなり咲き揃っており、人出もかなりあり、随所で春の到来を楽しんでいた。

葵祭は、京都の三大まつりの一つだが、その歴史は平安時代の昔から1400年前から続く五穀豊穣の平安貴族の祭りで「勅祭」である。
因みに、「祇園祭」は9世紀から続く八坂神社の夏越祭りで、京の風物詩であり庶民の祭りでもある。「時代祭」は、平安神宮の大祭で明治28年に
始まっていると言うことも知った。今年もコロナ禍で祭りも中止となるとか言われている。

京都を歩き回ると色んな風情に触れる機会があるのである。平安の昔から室町時代から幕末明治への歴史の変遷の奥深さに思い巡らしながらの歴史散策は、今後も続けて行こうと歩きながら改めて思った。まだ知らない京都の歴史散策は私にとって、確かな老化防止の良薬となっている。
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2021年4月 3日

古人の歩いた道を辿る(その2)

京都散策するならば、以前から北側だと思っていた。と言うのも北西部には平安貴族の別荘である離宮もあるとう思いからだ。
ということで、あの第52代の嵯峨天皇の離宮のあった大覚寺を目指して歩くことにした。阪急嵐山駅から渡月橋を渡り、天龍寺の横を抜けて歩く。

足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位である天龍寺には、既に三度も行ってはいる。あの借景庭園と池を眺めているだけで
心落ち着く場所で、初代住職の無窓疎石も眺めていたということからも、私のお気に入りスポットなのであるが。

旧嵯峨御所である大覚寺は、何やら御所風という印象だが、かなり広いし、コロナ禍ということもあり、一部は公開制限もあってる看板もあった。
境内の塀沿いに北上し山麓沿いを歩いていくと一面のどかな田園風景が広がっていた。

流石にこの辺りには、人影もなく、見渡す限りの田んぼであるから安心してマスク外して、ゆったりと新鮮な空気を吸い込んだ。
この風景は、何も大きな開発もされてはいない千代の古道の雰囲気を今も残しているような雰囲気である。近くには観月の池で有名な広沢の池があるのだが、まだ眼下には見えない。

そうして早春の田んぼ道をゆったりとしてペースで歩いて行くと左手に東方に水面が広がっているのが少しだけ見えてきた。近くには後宇田天皇陵もあるらしい。山裾の竹林の中を抜けて進むと月見の名所の広沢の池の淵に着いた。池の西端で池に突き出る小さな島(人工の観音島)に架けられた橋で、池や山裾を見渡す。

そうして振り返って、小倉山や愛宕山あたりの山々と広沢の池とが、秋の月見に似合うことも少しイメージしてみたのである。
古来からの観月の池として、西行も芭蕉も蕪村など数々の歌に詠まれたこの辺りの山と池のロケーションにも感慨深いものがあった。

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2021年3月14日

最近の愉しみ「時空の旅」にハマる

 定年退職してはや6年も過ぎると言うのに時折、現役時代の仕事にもがいてる悪夢を見ることがある。
問題解決しようにもあれもうまく行かずこれもダメの八方ふさがりで夢である。目覚めては、ああ何てことだと嘆息をつく始末。

どうも頭の思考回路が、ワンパターンで固定化されてるのかも知れない。こんな時は別の明るいサイドから物をみる機会を意識的に増やすようにしようと思ったのである。

 時あたかもコロナ禍の二年目であり、潜在的意識も抑圧されているのだろう。ならばいっそのこと精神の自由解放を進める方策は何かと思案した。歴史に興味のある私には、司馬遼太郎の小説やらこれまで集めた歴史資料等のデータベースから過去の都市の変遷を頭に描き、例えば、京都や大阪のある時期の数十年間の時の移り変わりを映像を想像してみたりもする。
また、かつて見たNHKテレビ番組の「タイムスクープハンター」のようなイメージでその時の民衆の心にも可能な限りなってみる時もある。

私にとって、過去と現代の変化を可能な限り画像が流るが如く、頭に思い浮かべる作業は実に愉しいひと時なのである。
何よりも脳トレにもなるし、時代を俯瞰する癖をつければ、過去現代のせせこましい煩わしい悩みも束の間は、雲散霧消するからである。

改めて、人は数千年の昔からそんなふうして生きて来たんだなあという思いは、何故か私を落ち着いた気分にさせてくれる一服の清涼剤となっているのである。当たり前のことながら、人は大きな時の流れとともに生きている。
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