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カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2023年10月 1日

10年にして金銀銅バッジ獲得

 私が空を見上げ、意識的に今日の天気を手帳に記帳し始めるようになったのは2013年1月7日からだった。
それまでは仕事の予定は手帳に記載してたが、よく見ると予定欄隅に過去5年間の天気マーク印刷されていた。それならば、私も一日の天気記載して後の為に記録しようと思ったのである。

 しかし、文字情報だけではつまらないと考えた私は、当時スマホなるものを初めて手に入れて、民間予報会社のウェザーニューズのアプリを使い、毎日レポーターとなって投稿することにした。
この会社は今では31万人を超える規模となって、全国のきめ細かい気象予報を行っている。会員数も今では160万人ほどに達しているとかる

それからは春夏秋冬の様々な気象現象も学びながらお天気レポートを続けて来た。元日は初日の出レポートに始まり、春には桜の開花と葉桜までレポートも追加していた。花粉飛散の推移や梅雨時期のアジサイや夏のゲリラ雷雨の雲の動きもレポートした。秋には紅葉の進み具合や秋雲なども様々にレポートした。

そして、遂にウェザーリポート社からミッション総数1万、リポート数8500突破で、ソラヨミマスターフェニックスで登録ポイントは67000を突破していることから記念の金銀銅バッジを頂いた。これまで平均1日2件超のリポートで10年目での達成となった。
知らない気象学や天文学の基礎的なことを少しずつ勉強することは、シニアの私には楽しみでもある。これからもまだ知らないことに関心をもって、コツコツ勉強しながら、お天気レポートを続けていくつもりである。
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2023年9月30日

最後の単身赴任

 私の最後の単身赴任は、定年前の58歳のことだった。もうこれで最後となる勤務地は佐賀県唐津市だった。
北九州市からは130キロ程の距離だから「金帰月来」の単身赴任者には車移動が丁度よいものだが、福岡市近郊が渋滞するので高速道を半分使う
ことにした。しかし、これまでの単身赴任の経験からも時には列車での帰宅も併用した。

 唐津には、ずっと以前から興味はある土地だった。歴史ある街で親藩の地でもあるからだ。また、秀吉の朝鮮出兵の地である北部の名護屋城に実際に出かけてみたいと思っていたからだ。

60歳までの2年勤務だと解っていたので、これで最後のご奉公だと思いとしっかりと仕事しないとという思いも募った。出来る限りのアンテナをはって、地図を睨みながら県内各地の状況を再度把握してからとりかかった。やはり、地理的な特徴も活かして、観光や危機管理防災の仕事も追加してしなくてはと考えてと思っていると次第にその方向性が明確に見えて来たのである。

やはりその土地に沿った交通体体形や観光促進が必須だと思えたからだ。県内各地にはまだ埋もれた観光資源があるのに未だに活用されていないことにも気づかされた。そうこうしているうちに一年が過ぎ去った。これまでの経験からしても一年経過して、二年目である程度の形として残して行かないといけないという思い強まった。

休日には趣味の歴史街道(太閤道)も実際に歩いたし、名護屋城跡の周辺も探索してみた。あの呼子の大綱引きや唐津くんちにも触れてみた。
佐賀バルーン大会にも出かけてみた。伊万里焼の歴史を知ると薩摩焼と同じ文禄・慶長の役で朝鮮から連れ帰った陶工の優れた技の集積の結果なのだと知った。と同時に日韓文化の相互理解と尊敬が必要なのだと思った。そうした深い認識をすること出来たのもこの地での勤務のお陰だった。勤続疲労の蓄積で、遂に体調を壊した50代中頃から精神的に病んで落ち込んだ時を経ての、最後の勤務地での充実した単身赴任生活は私の職業人生に良き思い出となっていた。

私の6年弱の単身赴任生活は、気苦労もしたけど赴任先で楽しみを見つけて過ごせたけれど、よく考えみれば自分のことだけに専念すればよいだけで、自宅に残した妻の4人の子育て苦労は察するに余りあることに気付いた。今さらながら妻の陰ながらの下支えに感謝しようと思った。


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2023年9月28日

予想外の単身赴任のこと

 初めての二年間単身赴任を終え、2003年春に自宅から通勤生活となった。これで、二年間は自宅から通勤となるとホッとしてしていた。
しかし、わずか一年間でその淡い期待はすぐに潰えた。通常ならば、単身赴任二年間で自宅通勤二年となるのが一般的だった。

青天の霹靂ともいうべき二回目の単身赴任先は、熊本の天草に近い町だった。北九州から250キロ程の距離である。

この距離ならば高速道を最大限に活用しないと週末帰宅も苦労する距離である。また、初回の佐世保市と比べて色々と難儀することが多かった。
それでも一度は単身赴任したという経験があることが心強かったし、丁度、単身赴任二回目の先輩も同じ宿舎にいたので、何かと助かった。

丁度12年間乗ったディーゼルエンジンのワゴン車を排出ガス規制対応のガソリンワゴン新車に買い替えたばかりだったから移動は少し楽しかった。しかし、毎金曜勤務後の北九州への車帰宅は疲れるので、特急列車での帰宅パターンが主流となった。

今度の赴任先は天草五橋の入口付近にあり、鉄道も終着駅なのは良いが、熊本駅までは普通列車だった。車窓から眺める有明海の海は穏やかで遠くに島原も見えていたのが今も脳裏に焼き付いている。自然豊かな有明海の海産物や豊富な柑橘類(清見、デコポン)を味わえた思い出がある。
仕事で、天草半島の先端の牛深には何度か行ったが、台風の通過地だが温暖な海洋気候の素晴らしい所だった。

あの「天草島原の乱」の歴史の奥深さにも触れ、天草と島原の繋がりや知られざるキリシタン教徒の苦悩の生活にも知ることが出来た。
また夏季休暇を利用して、車で九州山地を縦断して帰ったことも今では楽しい思い出の一つとなっている。

そうしてまた単身赴任二回目も経験することが出来たことは、私の職業人生に厚みを増してくれたと今では思っている。
二年間の単身勤務を終えて、三角町の宿舎を後にして帰宅の途上で、思ったのは三度目で最後の単身赴任のことだった。

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2023年9月27日

初めての単身赴任の思い出

 ふと22年も前の単身赴任のことを思い出した。国の地方出先機関の公務員だったから九州七県が異動が前提でだった。
就職し、結婚してからはずっと妻子と一緒に宮崎や福岡の数か所の勤務地を移動した。子供の小学校入学してからも二回程転校した。
しかし将来の転校での問題を考慮し、40代の初めに自宅マンションを思い切って購入した。

これで、単身赴任の準備はしていた。そして遂に、平成13年春に佐世保への転勤辞令がでた。今でも忘れもしない4月3日の朝、桜の花びら散り始めた頃にワゴン車に当面の生活に必要な服や布団などの最小限のもの詰め込んで、西海の地の佐世保へと向かった。
高速道は使わずに、国道を最短距離で走ったが、北九州から180キロ程の距離だけども初めての場所への移動は意外と時間がかかり過ぎて、結局は一部高速道も使う羽目となった。そうして、やっと佐世保の北部の宿舎にたどり着いた。

荷物を運びこみ、当面の異動手続きを済ませて週末までの3日ほど勤務して、金曜日の夜に北九州の自宅に戻った。そして、日曜の夕方にまたワゴン車に追加の荷物ケースを積み込んで佐世保に向かった。今度は高速道を利用したから予定した時間どおりとなった。

なにせ初めての単身での新生活だから要領が解らないことだらけ。しかし、先輩から最初のうちは週5日勤務し、自宅に帰るパターンを確立したら良いとアドバイスを貰った。また毎日の食事は落ち着いたら自炊すれば良いし、洗濯物は持ち帰れば良いと当分は洗濯機も買わなかった。
そうして三ヶ月もすれば、自分なりに自炊することも出来た。勤務帰りにスーパーでその日の気分で買い物するパターンだ。季節の食材を選んで、朝食の準備も要領よくすれば、何とか出来る自信はついた。しかし、夕食の献立は悩むことも多々あったが、職場の単身赴任者達と時に飲み会で済ますこともあった。慣れてくれば、色々と応用することが出来るものだ。

単身赴任中に次男がラグビー練習中に肩の骨折で急遽帰った時もあり気掛かりなこともあったが、二年間の単身赴任も何とか楽しく無事に勤めことができた。
その後に予想だにしない二回目の単身赴任が、突如やって来るとはその時は、夢想だにしなかったのである。

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2023年9月16日

物は考えよう

 今年の夏は何時まで続くだろうかと思う程の猛暑が9月中旬まで続き、日中はなかなか外で動き回ることが出来ない。
私には、自然ウォーキングが肉体的にも精神的にもスッキリとした気分になれるから続けているが。
しかし、先人の人が言う「ものは考えよう」で、上手く時間をずらしたり、日陰コースを歩いたりと工夫している。

思えば一軒家の実家を出て県外の大学と就職してから各地のアパート住まいで転々としていた。そして中年過ぎになってようやく子供の転校問題を考えて自宅マンションを35年ローンで購入したが、ずっと猫の額ほどの庭も畑もないままに定年となった。
その間ずっと各地の住宅周辺のウォーキングをしながら健康維持に努めていた。ウォーキングコース途上に庭のある家を見るたびごとに羨ましくて仕方なかった。
小さな庭や家庭菜園のことがずっと心の底に引っかかっていた。
特に、定年前頃からは、その願望は強まるばかりだったが、まあそういう環境にない定めと自分に言いきかせていた。

そんなことを考えながら今は家のすぐ前の数千本のバラもある公園周辺をよくウォーキングしている時にふと閃いたのである。
自分にはの庭も畑もないが、こんな近くに立派なバラ園や広場や子供公園も併設されてる緑多い公園が、何時でも利用できるのではないかとふと思った。所有せずとも頻繁に利用可能である。そんな幸運に気付いていない自分は、何を見てウォーキングしたのだろうかと・・・。因みにこの公園は、小さな円形古墳があり、古代人も住んでいたと思うと住みやすい立地なのだろうだと思った。

一つのことに凝り固まる考えは、駄目だと改めて思った。特定の考え方に固執してしまい、他の考え方ができないことはよく考えてみると生活の上で多々あるのだ。この際、他のことでも考えてみよう。発想の転換をしてみると如何に自分の頭が、柔軟でなかったのか思い知らされる。
自然を感じならのウォーキングの妙味は、こうした頭の整理、考え方の転換に役立つものだと高い空の秋雲とその下方に夏雲が混在している青空を眺めて、少しばかり汗ばんたが心は軽くなったきた。

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2023年8月15日

令和の大型台風7号

 令和になっての大型?台風が関西地方に直撃している。当初の予報より西よりのコースとなり、久方振りに厳重警戒しないといけない。 
定年後に関西に来てから思い出す大型台風は、5年前の2018年9月4日の台風21号だ。最大風速44m以上で、関西空港連絡橋にも甚大な被害をもたらした風台風だが、まだ記憶に新しい。自宅に居て、窓越しに見たその暴風の威力に本当に少し恐怖心を感じた思いが今も脳裏にある。

今回の台風はどの程度の被害となるか心配である。交通機関や防災担当機関も事前対策を入念にやってはいるが、注意が必要だ。
私の住む街も台風進路の東側となっているから暴風雨が早朝から夜までは続くのを覚悟している。
電気や水や食料も一応準備は、しているが、進行スピードが時速10キロ程度でノロノロで北西に進んでいるから被害が大きくなるのが心配だ。

地球環境が変化して、海水温がかつてより高まり台風も大型化しているとの観測もある。台風の発生数は少なくても、大型台風の襲来があるのが
特徴ならば、ますます減災対策を強化しないといけない。それは国や自治体や個人もだと思う。
地震と異なり、台風襲来は予報精度があがり、事前対策する時間があるから最後は、その心構え次第で、減災は確実に出来るはずだ。

 

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2023年8月13日

朝ドラ「らんまん」にみる明治の世相

大学生の頃から牧野富太郎に何故かしら興味があった。それが今春からの朝ドラ「らんまん」を通じて観るようになってきた。

牧野富太郎が生まれた文久二年(1862年)は、今から160年前で幕末動乱期で、森鴎外や新渡戸稲造も生まれている。
数年後に明治という新たな時代が始まるが、そんな変革の時代背景を思いながら最近観るようになった。

明治5年末から太陽暦の採用や地租改正やらと諸変革がスタートしている。
そんななかで土佐の佐川の裕福な酒造家に生まれているが、29歳の頃に実家は倒産している。テレビでは、火落ち、腐造がきっかけで資金繰りに困窮しての廃業となったようだったが、研究費や生活費にも多額の資金援助していたのも事実なのだろう。

ネットでその時代背景を調べてみると明治11年にスタートした造石税【製造した酒量に課税する従量税方式】は清酒1石(180L)につき金1円だった。それが4年後の明治15年には4円に大幅に増税されていた。また、当時自由民権運動とも関連して抗議の「全国酒屋会議事件」という減税運動もあった。
その後も明治29年に7円、明治37年に17円にまで増大しているが、それは明治政府による日清、日露の戦費調達ためだった。その後もシベリア出兵や満州事変でも多額の戦費が必要となり、ひたすら一等国を目指し、政府は大幅な酒税増改正を繰り返している。因みに明治時代の1円は、現在の貨幣で1.5万円から2万円位でかなり大きな税負担となっていたと容易に推察される。

そんな時代の苦境のなかでも、牧野は植物研究にエネルギッシュに続けていたと思うと感動せざるを得ない。
またドラマでも妻の壽恵子の力強い支援をうけて突き進んで姿に多くの人は感銘を受けているのだろうと思って私も毎回楽しみにして観ている。

これから昭和初期までが描かれるであろうこの朝ドラに注目していきたいと思っている。

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2023年6月22日

引越しの功罪

 最近、引越して思うのがその功罪である。仕事上の転居は止むを得ないとして、部屋の狭さや日当たりや総合的な周辺環境を理由に自発的に転居すると思わぬ苦労する。費用増は当然のことだか数年間で転々とすると文字通り「住所不定」となってしまかねない。

つまり、旧友やかつての仕事仲間から行方不明者となってしまう。勿論、年賀状を貰っている人達には転居通知はがきは出してはいるが、貰った方もついうかっり旧住所への宛先に出してしまうミスもある。
まあ、そろそろ年賀状じまいの連絡も到着し始めたので、その心配も少なくなりつつあるが、ラインでの繋がりで事足りている時代変化もある。

また銀行や生命保険や証券会社とかの住所変更も怠っていると大変ではあるが、これも最近ではネットでの変更登録も可能となっている。
しかし、個人認証のIDやPWを忘れて変更登録に手こずることがある。こうしたことに対応すべく手書きとPCでメモ書きするようになった。

そういった諸々の厄介なことを帳消しにするほどの心機一転の効果もあるから最後は納得してしまう自分がいる。
引越作業もかつては、始めは大変だったけれども慣れれば、多少は要領よくなるものである。
それでも流石に70歳近くともなるとやはり苦痛となってきた。もう、今回で最後だと自らに言い聞かせての今回の転居だった。

しかし現実は、貸主側からは、70歳近くなると家賃保証等の問題で次第に選別されているのが、現状だと思う。
だから、我々夫婦も終の棲家の選定を慎重に考えてのことである。
さあ、もう風に飛ばされる「タンポポ人生」に終わりを告げて、ほっと安堵感に浸っているこの頃である。

 なお、2年前に取得したマイナカードを活用して行政諸手続きをワンストップ処理できずに私の転居は終わってしまったのは心残りだった。

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2023年6月13日

心に残る引越しの思い出

これまで幾度も引っ越しを繰り返してきた。
最初の頃は、仕事の上だから、場所の選択の余地はなかったのだけれども、自宅マンションの購入の時と退職後からは、選択の自由を味わった。転居するたびに、環境にうまく適応するようになってしまってる自分に気付いている。

 これまで引越しで、まず思い出すのは、やはり初めての転勤命令での転居である。いま思い返せば25歳で結婚して、一年も経たないうちに、北九州から宮崎県への遠距離転勤だった。昭和の終りの時代だから宿舎は木造二軒長屋がまだ残っていたのだった。立地場所は日豊本線沿いで、すぐ近くには踏切もあった。

またその官舎は、土手の線路のすぐ下にあった。さらに驚いたことには、玄関は線路側に向いている。と言うことは客車からやや見下ろせる位置にあるからして、私が少し見上げると数メートル先の乗客の顔がほんの少しだけ見えるのである。よく目を凝らしてみれば、どんな飲み物を飲んでいるかもわかるほどの距離なのである。

これには全く驚いたのである。だから以後、私はその玄関からは出入りしたことがない。少し離れて勝手口から出入りしていたのである。
私の実家はあたりは田んぼに囲まれて、小さい頃から列車の汽笛は、遠くで聞いてばかりいたから、この体験には度肝を抜かれていた。
そして、貨物列車の通過時もガタンゴトンと言う音とともに踏切の長い警報音の複合音は、今にして思えば懐かしいが、当時の私には騒音だった。幸い妻は、これには全く気にも留めない性格なので、救われた思いであった。この宿舎には三年足らず住んだが、最後には私も全く慣れてしまっていた。

二番目に思い出すのもまた線路際の官舎でのことである。その宿舎は鉄筋コンクリート5階建ではあったが、今度は鹿児島本線沿いであった。
また近くに見上げれば、新幹線架橋と都市高速道路が見える。さながら「交通博物館の中の宿舎」だなと揶揄する同僚もいたほどである。
そして直ぐ近くに踏み切りはあるのは同じだが、線路との距離は15m程離れてはいた。しかし通過する列車数は鹿児島本線だから九州随一の数である。

ここでの思い出は、九州各地から関東へのブルートレインのことである。色んなヘッドマークの特急列車を幼い長男と眺めて楽しんでいた。すこし困ったことと言えば、たまにある深夜の線路補修工事である。深夜に線路側の窓がオレンジ色に明るいのに気付いて、窓外をみると大勢の線路補修の作業員が一所懸命に仕事していた。この宿舎には丁度4年間住んでいた。1970年代後半の頃の話である。

今となっては思い出深いもので、驚くばかりの体験も各地で色々したけれど、結局は先人の「住めば都」いう言葉どおりだと身をもって体感した。

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2023年6月 5日

14度目の引越しを終えて思うこと

平年より8日・昨年より16日早い梅雨入りの翌日の5月30日に引越した。
数えてみると、4回の単身赴任の引越しを含めて結婚してからの43年間でなんと14回目となる。これは少し異常だと思われても仕方ない数とも思う。

 しかし、転勤族であるが故に、引越は既定のことで、就職してからの5回までは、業務命令であるから当然のことだ思っていた。
そして、子供の幼少の頃は、特に問題もなかったし、幸いにも妻も新たな場所への転居も苦にならない性格に助けられていた。
それでも長男と次男が小学生、長女と次女が幼稚園に通う頃になると心境は少しずつ変化していった。転校問題を真剣に考えるようになったからだ。

そのため43歳の春に遂にマンション購入しての6回目の引越となり、もう転校はないと当時はほっと一安心した記憶がある。
しかし、これからが私の単身赴任のスタートの年となった。それから連続的ではないけれど長崎、熊本、佐賀へと三回の単身赴任生活となった。

ともあれ、新築の我家には、まる4年間住めて、最初の単身赴任地の佐世保市は北九州市からで比較的近くて有難かった。というのも、毎週末に車で帰宅可能な約120キロ程の距離であったからだ。
その三年後には、二回目の単身赴任地は熊本県三角市(現在、宇城市)となった。距離は約220キロとなり、毎週末帰宅にはひと苦労した。

それでも、時には電車とマイカーでの帰宅スタイルで、途中下車したりして、見知らぬ各地の雰囲気を少しずつ堪能すること出来たのは、かけがえのない楽しい経験だった。というのも九州各地の天然温泉は入れたからである。まさに、「温泉天国の九州」を味わえたのも懐かしい思い出でだった。
そして、最後の単身赴任地の唐津市では、地元の物産館と併設した日帰り温泉を毎週通ったものである。
その山間の静かな温泉は、勤続疲労した定年前の我が身を確実にリフレッシュさせてくれたものである。

定年退職後は、16年間(実質は約10年間)住んだマンションを売却し、三人の子供達が住む兵庫県に想定外に引越することとなった。
思い出深い九州を離れるのは、一抹の寂しさも感じたけれど、転勤族の習性か子供たちの希望も手伝ってか、未知なる地へと引越することになった。

しかし、定年後に度々脳裏に浮かぶのは、仕事での転勤地よりも「忘れがたい故郷」の風景なのである。本当に不思議なもので、青年の頃にはあれほど脱出願望のあった故郷であるはずなのに。沸々と湧き出てくる残像は、少年の頃の懐かしい田園風景のことばかりなのである。
これはつまりは、歳を重ねると人の心の奥深くには、やはり故郷の風景が強く刻まれており、それを70歳近くの私も認識したのである。今日も西方に空をふと眺めていた我が身に気付いた。

 

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