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カテゴリー「旅行・地域」の記事

2026年1月11日

春の兆し観えた伊豆の旅

 穏やかな新年明けて、世間では初仕事スタートした頃に伊豆半島旅行に招待された。以前から一度は訪ねてみたい所ではあった。
伊豆半島と言えば、2000万年程前にはフィリピンプレートの上に位置し、約100万年程前には北に移動し本州に衝突した珍しい場所だとは、以前ブラタモリか何かで初めて知っていたが。衝突により海底火山が陸地化して、約20万年には天城山などの大型火山が出来た所だから、特に半島東部には温泉宿が多数あった。その半島の中ほど山の中腹にある大川のリゾートホテルに一泊した。
屋上展望風呂からは伊豆半島東の海原が見えるが、当日は生憎の曇り空だった。それでも雲間からのわずかな光で輝く大海原が遠くに見渡せた。晴れた日ならば、はっきりと群青の海原を眺められるであろうことを想像して湯に浸かった。

そしてふと、かつて2年間単身赴任した熊本天草を思い出した。山の上から不知火海が見下ろせる場所にある日帰り温泉には何度も出かけた。そして、タラソセラピー(海洋療法)ということを初めて知った。海の恵みで心身を治療すること・健康増進をはかることで、語源は、ギリシャ語のthalasso(海)とフランス語のtherapie(治療)から来ている。確かに二度目の単身赴任の心身をリフレッシュさせてもらった。
また、ホテルの庭にある桜の木にはこの時期にもう少し膨らんだつぼみを見つけて驚いた。そう言えば、この近くの「河津桜まつり」が二月初旬からもう開催されるから土地柄だからと納得した

翌日は、伊豆半島の中央道ルートを北上して焼津港へと向かうことにした。まずは河津七滝、火山のマグマが冷えて柱状節理の岩場のある大小の滝は、綺麗な水の色にも圧倒された。また、石川さゆりの名曲「天城越え」で有名な浄蓮の滝は、25m程の大きな滝だった。道の駅のすぐ近くあり、滝つぼから水流であの立派なワサビ田もあった。
さらに、近くに川端康成の伊豆の踊子の像を見ていて思いだされたのは、今ほど交通機関の発達していない時代の天城山の峠越えはもう大変なことが解った、行きかう人々には、アウトローの人達や人生に疲れた人や旅芸人など多種多様だったんだと。それでも温泉で心癒していたんだろう。時代を経て今も昔も人間の営みは、大して変わらないのではと思ったりもした旅だった。

 

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2024年7月 7日

初めて見たH3ロケットのド迫力

 今月1日に「宇宙に一番近い島」である種子島の南種子町で初めてH3(次世代の大型基幹ロケット)の発射を肉眼で見る機会に図らずも恵まれた。
ロケット発射場から3キロ以内は安全上から立ち入り禁止である。それでも町内の4ケ所のロケット見学場で、一番近い見学場所である恵美之江展望公園近くで見学出来たのは、幾つもの幸運に恵まれたお陰だった。まさに、シニアの私には冥途の土産に相応しい程の貴重なものだと変に得心した。
 と言うのも、当初の打上げ予定日は、6月30日で、その前日の昼には翌日に発射延期の報道があった。通常の発射延期は一週間程度が普通だとホテルの関係者が教えてくれた。だから多分の天候の影響を念のため考慮してのことだろうと。種子島の天気予報は、曇りのち晴れだが、やや風があったからだと私も納得した。

発射1時間ほど前にその公園広場に着いた。発射場が海を隔て約3キロ先にはっきりと肉眼で見える絶好の見学ポイントだった。
既に多数の見学者が、様々な場所から望遠カメラを設置して準備万端、その時に備えて待っていた。中には、早めにお昼の弁当を食べている人達も多数いた。小学生も数人、学校を休んで見学しに来ている親子もいた。めったにない社会見学だろう。                           

カウントダウンのアナウンスは1時間前から見学場で行われていた。そして、いよいよ10分前から緊迫感がさらに強く感じられるようになった。
発射当時の天候は全て良好だと皆も感じていた。そして、
発射の12時6分46秒の30秒前からカウントダウンの大合唱となっていた。
そして、大きな白煙とオレンジ色の噴射が少し見えて、ロケットは上昇し、さらに加速してしながら上空にバリバリバリと空気を割く爆音を残して上がって行った。何とも言えない迫力が伝わって来た瞬間でもあった。テレビ映像では味わえない現地の空気感が今も鮮明に覚えている。前回も成功したH3ロケットだが今回も成功して欲しいという皆の期待を背負ってロケットを見守る雰囲気が現地で見ている皆の心底にあることが解る瞬間だった。
素人の私にも90秒が長く感じられた時が過ぎた。補助ロケット切り離しが確認されると近くにいた初老二人の島の住人らしき男性も安心した歓声を上げていたのが、印象的だった。

終わってみれば、僅か二分に満たない短時間だったけれどもこれからの日本の宇宙開発の新たな段階に突入した画期的な瞬間に出会えたことは、嬉しい限りである。
何故なら、H3ロケットは、日本の主力ロケットである「H-IIA」ロケットの後継機として、20年間の運用と年6回の打ち上げを目的として2015年よりずっと開発が進められていた。H3ロケットは国内の衛星打ち上げだけでなく、海外からの衛星打ち上げ受注を目指す ために、柔軟性・高信頼性・低価格の3つを特徴としていることを現地で知ったからである。
そして、今回のH3ロケットは、陸域観測技術衛星「だいち」の光学ミッションを引き継ぐ先進 光学衛星「だいち4号」を搭載して打ち上げられてもいた。
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2024年1月28日

箱根関と箱根駅伝

 今年2024年が第100回の箱根駅伝大会だと知って、その記念すべき大会に計らずも観戦する機会を得た。実は、以前からテレビ中継でなく、現地でのレース観戦したいとは思っていたが、先年のコロナ最中で観戦するホテルも予約していたものの、また拡大予報にたじろぎ、シニアの私達夫婦は、遂に観戦を断念したという経緯があった。

 そして、コロナ禍もほぼ収束した2023年秋に次男からの招待旅行が箱根駅伝だった。奇しくもそれが、記念すべき100回大会だというものだった。
1920年(大正9年)が第一回と言うからには、途中数回かは途絶えていることになる。調べてみたら、第一回は早稲田大学、慶応義塾大学、明治大学、東京高等師範学校の「四大学対抗駅伝」として実施されているようだ。その後、参加校が増えて、現在の20数校となっているようだ。

私が宿泊したホテルは往路6区過ぎの箱根湯本駅の近くであり、観戦するには便利な場所だった。往路6区と言えば山上り区間で有名だが、実際のコースをバス乗って、ずっとその長さや角度やカーブを見てると相当な区間だと実感した。これじゃゴールしたら倒れ込む筈のレベルだと実感した。

実際上り坂もきついけれど復路の長くきつい下り坂の方が、脚の筋肉に相当なダメージを与えるはずだと思った。まあ、いずれにしても20キロを60分程度の走力をもった選手を10人以上が集める関東の大学は日本の長距離界の大きな基盤であり財産だと推察した。
観戦して思ったのは、各選手とも鍛えられた脚と厚底の最新のハイテクノシューズを活用にして、サラブレットの如く走り抜けていたのを見て、隔世の感を覚えた。当たり前のことながら私の数十年前の駅伝の記憶にあるイメージとは、こんなにもかけ離れていると強烈な印象だった。

そして、往路の終点のすぐ手前の東海道の箱の関所にも立ち寄り、雪のある雄大な富士山も拝むことが出来た。日本とその歴史の重みを再認識できた思い出の旅となった。

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2023年1月22日

有馬山中の塩泉、炭酸泉へ

 寒波到来を控えた先日、久し振りに近くの有馬温泉にふらりと行ってきた。温泉の多い九州出身の私は、中年の頃から各地の温泉巡りを趣味としてきた。単身赴任の各地でも週末には、様々な温泉地に出かけることが、もう習慣化していた。

 しかし、定年後に関西に引っ越してからは、そのスタイルも随分と変化した。手頃な温泉が、少ないのである。
それでも、有馬温泉だけは、一時間内で行ける温泉で、日本書紀にも登場する日本最古の温泉のひとつで有名であり、塩湯や炭酸泉というので、これまでも何度かは日帰りで通っていた。

そして、コロナ禍になってからは、随分と足が遠のいていた。昨年末にはオミクロン株にも対応したワクチン接種したことや旅割の旅行支援も追い風になって、妻と久し振りにマイカーで出かけてみた。

有名な「金湯」は、茶褐色の金泉は海水のおよそ2倍の塩分を含む強塩泉で、殺菌作用や皮膚の活性化作用があり、塩が肌に薄い皮膜を作るため保湿効果が持続するとか。では何故、六甲山の裏側の山中に塩湯が湧出するのか、ずっと気にはなっていた。

調べてみると、約600万年前の古海水が約600℃のマントル(地球の核とプレートのある層)に熱せられて高温のお湯となり湧き出して
きたものとのこと。つまり、遥か遠くの太平洋の海水が、フィリピン海プレート(深さ40~80km)によって地中に沈み込みマントルの上部を通って温められて、地表に噴き出したもので、湧き出る瞬間は、お湯は透明らしいのですが、湯に含まれる鉄分が空気と触れて酸化して、茶褐色のお湯になるらしい。そして、金泉は海水のおよそ2倍の塩分を含む強塩泉である。

こんなに健康に良い療養泉が近くにあるならば、これからもしばしば日帰りでも通ったみたいと思い始めたこの頃である。

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2021年3月31日

古人の歩いた道を辿る(その1)

 明らかに春めいて来たが、未だコロナ渦中でもあるからして、可能な限り人出の少ない自然を歩いてみたいと思うようになった。
以前からの趣味で京都をあちこち散策している。最初うちは定番の人気スポットの嵐山周辺や清水寺や哲学の道あたりだったけれど。

やはり、時空の旅の準備として、古地図を頼りに平安京の時代の京都はどのような配置関係だったかを辿ってみたくなった。
当然のことだが、僅かに残る石碑等の痕跡を点を辿ってあちこちと歩き回ってたどってみた。朱雀大路は基準にして歩いてみた。
幸いにして、京都の街は碁盤目状の条坊制だから東西南北は解りやすく、歩き回るにしても随分と助かるのである。

京都の地図を見る際は、北を背にして南を見るようにしている。と言うのも天皇が鎮座してる位置から眺めると地名は理解が容易だと教えられたからだ。

また、平城京から784年に長岡京への遷都となったのは、奈良盆地での水事情が良くないことも主な原因の一つだったとことを知り驚いた。
そしてまた、長岡京にしても僅か10年程で、水害等に悩まされたすえに、和気清摩呂の建議により794年に平安京への遷都となっているのである。
京都盆地は概観として南西部が低湿地となっているため当初の平安京もまたしても水害に悩まされていた。 そのため、その後、御所も東方の鴨川沿いに移動しているのである。

時代は下って、秀吉の都市計画でもある天正19年の「御土居」と言われる京囲いの土塁に興味が出て、洛中の周囲約23キロ程を何回かに分けて歩いてみた。洛北部である現在の北区大宮土井町あたりに行くと、盛り土の高さには驚くばかりだった。

そして、単なる盛り土と言えない程の大量の土は、実は周辺の土地を掘り起こして、その跡は立派な堀となっているのだから、「御土居堀り」というのが正しい名称だと言うことにもうなづけたのである。

この御土居堀は、単に洛中洛外の明確な区割りで、京の都の軍事的防衛のためだけではなく、洪水対策の目的にもなっているのが実際よく判った。
昔から暴れ川である鴨川の水防対策や南西部の低地の水防にも役立っているようだった。

 兎に角、歴史散策するには京都という街は、まさに歴史の宝庫である。歴史に興味の尽きない私には格好の街でもある。
ここを歩きながら平安から中世近世の各時代を旅できるのが有難いし、さらに前頭葉の脳トレと脚力の維持するのにも役立っているし、ストレス解消にもなっているのである。これからもあらゆる角度から京都と言う街をさらに解剖していきたいと思っている。

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