素晴らしい先達二人に出会った石清水八幡宮
関西に来た頃から、京都へ向かう途中で、ずっと気に掛かっていた場所の一つに八幡市の石清水八幡宮があった。
立地場所も南京都で、桂川、宇治川、木津川の三川合流地点の近くにある。三つ川はこの地で淀川となって大阪湾に注いでいる。面白い自然のロケーションでもある。また男山から見る鳥羽伏見の戦いを想像してみるのに良い場所でもある。
そして、私が石清水八幡宮の名を初めて知ったのは、吉田兼好の徒然草の第52段の仁和寺の老僧の「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」の言葉である。つまり、仁和寺の僧は、男山の麓の高良神社等のみ参詣して帰ってしまい、肝心の山上の本宮の八幡宮に参詣しなかった。だから、どんな些細なことでも、案内がほしいという教訓となっている。
実は私も早とちりな所があるし、ましてや初めての歴史散策は、今では事前に調べて出かけているが、それでも現地で勘違いして迷ってしまった経験はある。だから、今回は石清水八幡宮の現地案内所で、数枚の案内図を見ていたところ、突然なかから高年女性ボランティアが話かけてくれて、案内図を広げて八幡宮の設立の来歴からエジソン記念碑や楠木正成の手植え楠とかの見どころからを実に詳しく教えて頂いたのである。
この方が、まず一人目の先達である。
つまり清和天皇(850~881)は藤原氏が実権を握る時代に産まれ、母が藤原氏一族だったためにわずか9歳で天皇の位についたが、藤原氏が力を持つことを良しとしておらず、早くに譲位し仏門に入った。わずか31歳の生涯ながら子孫が多く、そのうちの一族に「源」という姓を与えた。この一族が「清和源氏」で、清和源氏は地方に広がり、武士となり勢力をのばした。源頼義・義家の時代には、関東で地盤を築き、ここで源頼朝は、鎌倉幕府を開くことになった。
また、石清水八幡宮は、神社創建前に霊水「石清水」が湧き出ていたことがその名の由来で、今から約1160年前の平安京を守る神様として、八幡宮の総本社である九州・宇佐八幡宮から八幡大神を勧請し、貞観2年(860年)に創建されたこと。またこの八幡宮は応神天皇、神功皇后、比咩大神(ひめおおかみ)の三神をお祀りする、二所宗廟のひとつであること。二所宗廟は、皇室が先祖に対して祭祀を行う廟のことで、伊勢神宮と石清水八幡宮の二ケ所だけだという格の高い神社でもあることなど知らないことだけでした。
男山の山上で、まるで竜宮城と見紛える社殿をゆっくりと眺めていたら、社務所の人かな思える初老の男性から良い写真とれましたかと声をかけて頂いた。そこで、私は1580年に信長の寄進した塀について尋ねたところ、分厚い瓦を重ねた幅1m強程の土塀の耐久力や耐火力の凄さの話もして頂いた。
それから信長は社殿内の朽ちた雨樋見て、永久に朽ちない金の雨樋として寄進した話もスマホ画面を次々に見せてくれて、詳しく説明してもらった。基礎の石垣も大坂城のように綺麗ない石組だったし、社殿の二羽の神鳩も八の字となっている謂れを説明して頂いた。
この日、二人目の先達であった。
八幡宮の創建以来、清和源氏や楠木正成、信長、家康らから寄進を受けているこの八幡宮は素人の私にも超国宝ものだと得心したのである。
それもこれも素晴らしい二人の「先達」のお陰だと思い、久し振りに充実した歴史散策となった思いがした。
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