心に残る引越しの思い出
これまで幾度も引っ越しを繰り返してきた。
最初の頃は、仕事の上だから、場所の選択の余地はなかったのだけれども、自宅マンションの購入の時と退職後からは、選択の自由を味わった。転居するたびに、環境にうまく適応するようになってしまってる自分に気付いている。
これまで引越しで、まず思い出すのは、やはり初めての転勤命令での転居である。いま思い返せば25歳で結婚して、一年も経たないうちに、北九州から宮崎県への遠距離転勤だった。昭和の終りの時代だから宿舎は木造二軒長屋がまだ残っていたのだった。立地場所は日豊本線沿いで、すぐ近くには踏切もあった。
またその官舎は、土手の線路のすぐ下にあった。さらに驚いたことには、玄関は線路側に向いている。と言うことは客車からやや見下ろせる位置にあるからして、私が少し見上げると数メートル先の乗客の顔がほんの少しだけ見えるのである。よく目を凝らしてみれば、どんな飲み物を飲んでいるかもわかるほどの距離なのである。
これには全く驚いたのである。だから以後、私はその玄関からは出入りしたことがない。少し離れて勝手口から出入りしていたのである。
私の実家はあたりは田んぼに囲まれて、小さい頃から列車の汽笛は、遠くで聞いてばかりいたから、この体験には度肝を抜かれていた。
そして、貨物列車の通過時もガタンゴトンと言う音とともに踏切の長い警報音の複合音は、今にして思えば懐かしいが、当時の私には騒音だった。幸い妻は、これには全く気にも留めない性格なので、救われた思いであった。この宿舎には三年足らず住んだが、最後には私も全く慣れてしまっていた。
二番目に思い出すのもまた線路際の官舎でのことである。その宿舎は鉄筋コンクリート5階建ではあったが、今度は鹿児島本線沿いであった。
また近くに見上げれば、新幹線架橋と都市高速道路が見える。さながら「交通博物館の中の宿舎」だなと揶揄する同僚もいたほどである。
そして直ぐ近くに踏み切りはあるのは同じだが、線路との距離は15m程離れてはいた。しかし通過する列車数は鹿児島本線だから九州随一の数である。
ここでの思い出は、九州各地から関東へのブルートレインのことである。色んなヘッドマークの特急列車を幼い長男と眺めて楽しんでいた。すこし困ったことと言えば、たまにある深夜の線路補修工事である。深夜に線路側の窓がオレンジ色に明るいのに気付いて、窓外をみると大勢の線路補修の作業員が一所懸命に仕事していた。この宿舎には丁度4年間住んでいた。1970年代後半の頃の話である。
今となっては思い出深いもので、驚くばかりの体験も各地で色々したけれど、結局は先人の「住めば都」いう言葉どおりだと身をもって体感した。

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