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2022年6月29日

我が家系が気になる歳になって

 人生も終盤に差し掛かる頃になると、どうも人はご先祖様のことが気になるものらしい。
かく言う私も、そう いう年になったということか、某NHKテレビのファミリーヒストリーを観て、ふと私の遠い先祖は、何処から来たのか知りたくなった 。

ご先祖様から連なる家系図は、調べて作るとなると手がかりとしては、まず戸籍だと言われている。
取得可能で最も古い戸籍は、明治19年作成ものであるから、江戸時代後期の1830年の天保(遠山の金さん)や、゛幕末嘉永(ペリー来航1853年)かそれ以前の1804年文化・文政の頃まで位の約200年前迄は、かなり8割程度は解るものらしい。なお、由緒ある家系では、室町時代頃からの系図は伝わってはいるものだが。

そして、私の戸籍にも嘉永生まれのご先祖様が確認できました。しかし、それ以前について、全く判らない。
全く不明ではあるが、我が祖先についての関係文献、老母に聞き取りしたりした明治末頃に生まれの遠縁の先人がいたと最近なって知って驚いた。
実家から少し離れた場所の菩提寺の過去帳や八幡神社伝記なども老母にも見せてもらい、先祖のことを聞いていたようだ。

過去帳からは、寛政6年(1794年)亡というご先祖様が確認された。これは1700年頃には寺請制度があったことに符号し、精度は高い文書だと
思われた。【注】寺請制度は江戸幕府によって発せられた制度で、民衆は全てお寺の檀家になることを義務付け、「寺請証文」と呼ばれる身分証のようなものを保有しなければいけないという内容のもの。

 さらに、それ以前の事については、伝聞証拠とはなるものの近くの八幡神社の社録中に豊後の国の大友氏の系統というのがあった。
それによれば、應永(1394-1428)の頃に馬ヶ岳城の攻略の時に従軍して福岡県東南部やって来て、落城後に現在の京都郡内に居住したとのこと。その後、二度ほど移住して、江戸時代には紺屋(染物屋)を営んでいたという話が残っていることが解った。

 以上の調査でも一部しか解らず、老年のためその後の調査も十分には出来ずに、不十分で誤りがあるやも知れないとは思いつつ、その調査を後世の同志の人に託して、昭和中期頃に亡くなった先人の家系調査書の写しが、何故か今、私の手元にあるのは、ただ不思議な因縁としか言わざるを得ない。先人の期待する「同志の士」とは未だ足りえていない我が身である。

Family_kakeizu

 

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