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嵯峨千光寺の角倉了以

 京都にとっても水問題はあり、時として厄介だったようだが、都の東西に流れる桂川(保津川の下流域)と鴨川を水運に利用しようとした。
つまり治水よりも利水に相当の工夫を凝らしていた中世の一時期があった。
渡月橋の上流域の大堰川(おおいがわ)とか森鴎外の歴史小説「高瀬舟」でも有名な高瀬川(二条・伏見間11.1kmの人工の運河)を私財7万5千両(現在貨幣換算で約150億円相当)を投じて開削したのが、京都随一の豪商の角倉了以である。

戦国期から江戸初期にかけて、朱印船貿易の開始とともに安南国(今のベトナム)との貿易等で財をなした長者でもある。
私は戦国期にこうした途方もないビッグ開発プロジェクトをやってのける程の人物に以前から興味があった。
この当時にこんな公益精神で舟運の発展に尽くしている人物がいるなんて信じられなかった。資金力もさることながらその技術力や遂行力にも驚くばかりである。なお、投下資金は、開通後には通行料として約8年程度で回収出来たようではあるけれども。
また江戸幕府の命令により富士川(慶長12年)、天竜川、庄内川などの開削も行っていたようだ。

調べてみると角倉了以(1554年-1614年)は京都嵯峨の出身で、その生涯はほぼ徳川家康と重なっている。角倉家は代々医術を本業としていたが、その傍ら土倉つまり質屋も営んでいた。家康が江戸幕府を開いた3年後1606年に、まず京都の西を流れる保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数キロ上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得た。
そして、開削を始めて6カ月後には竣工させている。その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を振るって仕事にあたったと言われる。
保津峡の開削の成功によって搬送船が嵯峨に着き、大堰川開削により丹波地方の農作物は旧倍して運ばれはじめ、嵯峨近辺は商人の往来が多くなり発展したと関係資料に記録されている。

その了以が、晩年に保津川開削工事の犠牲者の霊を弔うために、稔侍仏の千手観音を大悲閣千光寺に祀り、この寺で亡くなっている。
大悲閣には角倉了以の木像があるというので、以前から一度訪ねてみたいと思っていた。
渡月橋界隈は、何度も行ったことがあったが、千光寺は渡月橋を渡らずに保津川西岸の嵐山の中腹にあった。渡月橋から徒歩20分程度である。
九折の急な参道を上ってみると小さな本堂等だけがあり少し驚いた。別棟からは大堰川が眼下に見え、遠くには京都市街や比叡山も見えた。

本堂の木像の了以は、法衣を着て石割斧を持ち、片膝を立てて座っている。射るような眼光の鋭さが意志の強い性格の人でないかと想像した。 困難な事業を遂行するには、想像を絶するくらいの難関があっのだろう推察したが、そうさせたものは何なんだろうかも思ったりもした。
嵐山の山腹の寺から心静かに京都市街を眺めながら当時を状況を偲んでみるとその角倉了以の意志の強さをただ感じざるを得なかった。

 

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